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この物語はあなたの大事なものを思い出させる。『モモ』

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ライフネット生命の出口さんがオススメしてるから、信用して読んでみたけど。信用して良かった。こりゃあ凄え。

 

読書変態の最高峰

どうも、読書ブロガーのひろたつです。

私は普段から「時間を見つけたらすぐに本を読む」という生活をかれこそ20年ぐらいしている。友達が青春に打ち込んでいるときも、みんながテレビやスマホを見ているときも、私はずっと本を読んできた。

今でこそ仕事にブログに育児とやることが増えてしまったため、読書量は減ってしまったが、その分、読書への熱量は増していく一方である。睡眠時間を削ってまで本を読んでいるのだから、これはもう読書中毒と言っても過言ではないだろう。

 

しかし、そんな私でもやっぱり世の中、上には上がいるもんで、私を遥かに上回る読書変態が存在する。

そんな読書変態の中でも、ライフネット生命の出口会長かなり有名な存在である。年間1000冊という読書量からしてイカれているし、本当に価値のある本を勧めてくれることでも有名である。

例えばこんなのとか。 

 

最強の児童書

そんな出口さんがオススメする児童書がある。そう、児童書なのだ。

普段小説を読まない人は多いと思うが、児童書を愛好する人はさらに限られるだろう。

しかし、私はそんな状況に苦言を呈したい。

児童書こそ、小説の本質なのだ。

 

というのも、大人が読むための小説は余計な装飾があまりにも多すぎるのだ。

エロ、暴力、善悪、正義、グロなどなど。過激にすることでエンタメ要素にブーストがかかり、面白くなるのは認める。ただたまに、単なるチープな物語に対して、目くらましをしているように感じることがある。

 

その点、児童書は非常にシンプルである。

しかしそのシンプルさには、奥深さがあり、何よりも普遍性がある。誰もの心に触れる最大公約数を持ち合わせている。それが児童書なのだ。

 

で、日本を代表する読書変態がオススメする児童書である。どれだけ凄いのかと、ワクワクしないだろうか。

それが今回紹介する『モモ』である。

 

正式なタイトルは『モモ 時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語』というめちゃくちゃ長いもので、これでストーリーのほとんどを説明してしまっていたりする。これは厳しい言い方をすれば、ネタバレである。

しかしながら、そんなネタバレもこの作品の質には何の影響もない。

読み出せばすぐにこの作品の凄さが分かるだろうし、なぜ発売から40年以上経った今でも評価され続けているのかを理解できることだろう。変態が勧めるだけのことはある。

 

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秀逸な“時間どろぼう”の存在

繰り返すが『モモ』は児童書である。暴力的な描写は一切出てこないし、派手な演出もなければ、壮絶なドラマがあるわけでもない。

では何がそこまで凄いのか。人の心を、特に大人の心を惹き付けるのか?

 

それは『モモ』の中において悪役とされている“時間どろぼう”の存在にある

 

あまり細かいことを書くと本当にネタバレになってしまうので端折るが、この“時間どろぼう”は、人の欲などに付け込み、時間と引き換えに成功を与えてくれる存在なのだ。

作中で出てくるキャラクターたちは、少しでも今よりもいい生活をするために自ら進んで“時間どろぼう”に時間を渡してしまう。

その結果、彼らは成功を手にする。

しかし、時間を失くしてしまっているので、まったく余裕や楽しみのない生活を送るようになる。常に忙しい忙しい、と言うようになる。

そしてここがミソなのだが、“時間どろぼう”に一度時間を渡してしまうと、時間どろぼうのことは忘れ去ってしまうのだ。

そこには、楽しさや余裕を忘れて、ただただがむしゃらに働くだけの人間がいる

 

思わず胸が苦しくなってしまうほど

どうだろうか。何か身に覚えがあるような気がしないだろうか。

いや、もっとはっきり尋ねよう。

あなたも時間どろぼうに時間を渡してはいないだろうか?

 

私はここの部分を読みながら、思わず笑ってしまった。そして胸が苦しくなった。

まるで今の自分じゃないかと思ったからだ。

 

生きるために、少しでも生活を良くするためにと働き、ブログという副業にまで手を出して、さらには睡眠時間も削って読書をする。余裕なんてどこにもない。

きっと皆さんも似たようなもんだと思う。忙しい忙しいと言いながら、余裕を失っている。

 

この皮肉が本書における最大のレトリックである。

 

もしかして性格悪い? 

ミヒャエル・エンデの作品を読んだのは『モモ』が初めてだったので、他の作品はどうなのか知らないのだが、彼は相当な皮肉屋なのかもしれない。それか、どうしようもないぐらい性格が悪いか。

勘違いしてほしくないのだが、性格が悪いというのは作家にとっては褒め言葉である。

他人に迎合せず、己の視点だけを信じ、自分好みの世界を構築する。そんな異常な行為ができるなんて、才能以外の何物でもない。性格の悪さは才能の一種である。

良い作家には性格が悪そうな人や、歪んでいる人が多い。別に誰かと実際に会ったことなんてないので、勝手に私がそう決めつけているだけである。

 

ただ、『モモ』を読んだら多くの大人は確実に胸を突かれるような思いを抱くだろう。そして自分の生き方に疑問を感じぜずにはいられないだろう。それはもう痛いくらいに。

ミヒャエル・エンデはそんなことを狙ってやっているのだ。

性格が悪いというのは言いすぎかもしれないが、ちょっと意地悪な作家なのは間違いない。 

 

大事なものに思いを馳せる 

『モモ』という作品の影響力は破壊的である。こんなに平和な作品なのに、殺傷能力抜群である。時間に追われる現代人を殺す能力に特化した作品だ。

 

そして殺された結果どうなるか。

先程も書いたように、時間に追われていていた自分に疑問を感じるようになる。

今までの生き方を省みることになる。

蔑ろにしてきたことは何か。忘れていることは何か、と考える。

 

そして最終的に思う。

自分にとって「本当に大事なものは何なのか?」と。

 

その疑問は、仕事において、生活において、考え方において、判断において、すべてにおいて新たな視点を与えてくれる。それは非常にクリアな視点だ。

 

欲望を追い求めることと、自分の心を見つめることは似ているようで違う。

欲望は勝手に溢れ出てきて、意識しようがしまいがいつだって目の前に現れる。

しかし、自分の心というのは、一番近くにあるはずなのに、なぜか見えなくなり、よく分からなくなる。色んなもので目が曇ってしまい、自分が分からなくなってしまうのだ。

 

『モモ』に答えが書いてあるわけではない。あくまでも見つけるのは自分自身であり、自分しか答えは分からないのだ。誰かが与えてくれるものではない。

もちろん簡単に分かるようなものでもないかもしれない。自分って一体何なんだ?という迷宮にはまり込むかもしれない。

でも安心してほしい。

迷っている状態は探していることと同義である。つまり、目的があるのだ。

目的があるかどうかだけで、人生は確実に価値を増す。目指すべき場所があるからこそ人は進むことができるのだし、それこそが自分の人生である。

 

あなたの大事なものが見つかることを願う。

 

以上。