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物語におけるリアリティの重要性。伊坂幸太郎『マリアビートル』

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伊坂幸太郎は読者を意識しなくなってからの好き放題っぷりが素晴らしい。

 

人気シリーズの第二作目

どうも、読書中毒ブロガーのひろたつです。

 

今回紹介するのは、超人気作家である伊坂幸太郎の大人気シリーズから。

『マリアビートル』である。 

先日書いた記事でも触れたのだが、私は伊坂幸太郎を全面的に信用している。それはつまり「絶対に面白い小説を書いてくれる」ということである。

これは小説好きにとって有難すぎる存在である。しかしそれゆえに私は伊坂幸太郎を読めなくなってしまうというジレンマに嵌った。

面白い小説を書いてくれるがゆえに、いつまでも読むのを取っておきたくなる、そんな習性が本好きにはあるのだ。なにせ、いつどのタイミングで「面白い本がまったく見つけられなくなる」か分からないからだ。保険として面白い本を取っておきたくなるのは、小説好きとして仕方のないことだろう。

で、最近そんな伊坂を解禁してしまった。

理由は色々あるが、まあ簡単に言えば「もう我慢できねえ」という感じである。 

そして解禁した結果やはり思い知った。

 

「伊坂幸太郎の小説は面白すぎる…」

 

と。 

 

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“分類不能”?

『マリアビートル』の紹介文をAmazonより引用させていただく。

幼い息子の仇討ちを企てる、酒びたりの元殺し屋「木村」。優等生面の裏に悪魔のような心を隠し持つ中学生「王子」。闇社会の大物から密命を受けた、腕利き二人組「蜜柑」と「檸檬」。とにかく運が悪く、気弱な殺し屋「天道虫」。疾走する東北新幹線の車内で、狙う者と狙われる者が交錯する――。小説は、ついにここまでやってきた。映画やマンガ、あらゆるジャンルのエンターテイメントを追い抜く、娯楽小説の到達点!

『マリアビートル』とは『殺し屋シリーズ』と呼ばれる伊坂幸太郎を代表するシリーズの第二作目として発表された。一応前作と位置づけされているのが『グラスホッパー』なのだが、内容に直接的な関係はなく、一部の登場人物が重なるぐらいでどちらを先に読もうが関係ないだろう。

この『殺し屋シリーズ』なのだが、帯に煽り文句としてよく「分類不能」とか「まだ誰も読んだことがない」なんて言葉が書かれている。それが果たして適切かどうかは今回の記事では触れない。ただ、私の純粋なる感想を書くと「そこまで分類不能でも、読んだことがないような小説でもない」 ということになる。

しかしながら、これだけ殺し屋だらけの物語も珍しいとは言えるだろう。しつこいかもしれないが、それが“分類不能”だとは決して思わないが…。

 

抜群の伊坂エンタメ

『マリアビートル』はとにかく面白い。こんなありきたりな言葉なんて使いたくないのだが、これだけ面白いと避けようがない。

登場人物の9割以上が殺し屋、という珍しい設定の物語ではあるが、その面白さの構造というか、基本にあるのはとてもシンプルなエンタメである。アンパンマンと同じぐらいのレベルでシンプルなエンタメだ。つまり“勧善懲悪”である

伊坂幸太郎はデビュー当時から“勧善懲悪”を利用したエンタメ作品を多数発表してきた。ありがちな構図だとか、リアリティがないとか、物語としての底が浅い、なんていう色んな批判の声は挙がるものの、その面白さは多くの人に受け入れられた。現に全国の本好きが面白い本を選出する賞である『本屋大賞』でも2008年に『ゴールデンスランバー』で大賞を受賞している。

人は“勧善懲悪”にエンタメを感じるようにできている。

これは動かしようがない事実なのだ。であれば、作家として読者に最高のエンタメを届けるのは使命のひとつではないだろうか。もちろん先程書いたような批判の声は避けられないのだが。

 

開放された伊坂エンタメ

伊坂幸太郎は「読者を意識する作家」である。

だからこそ、これだけ多くの人に受け入れられてきたのだろうし、面白い作品を高確率で生み出せてきたのだと思う。

※参考記事

www.orehero.net

 

しかしそれは同時に作家としての自分自身を縛り付ける行為でもある。過去の成功体験から逃れられなくなる可能性が出てくる。少なくとも読者は同じようなものを求めるからだ。

デビュー当時から彼を見てきた私としては、彼がこれからどちらの方向に進んでいくのかに非常に興味があった。

つまり、

①自分の持っている「会話の面白さ」「構築度の高い物語」という要素を踏襲し続ける。

②作家としての新たな側面を発掘していく。

 

このどちらに進んでいくのかに興味があった。

今のところ私が見る限り、伊坂幸太郎は①の道を驀進しているように感じる。

もう少し前はそんな自分自身に躊躇のようなものを感じ取った部分があった。

 

「同じようなものばかり書いてはいけない。読者のために新しいことができないだろうか?」

『ゴールデンスランバー』辺りの伊坂幸太郎からは、そんな声が聞こえてくるようだった。

 

しかしある時期から伊坂幸太郎は吹っ切れる。読者のために小説を書くのはもちろんだが、自分自身が楽しめる物語に全力を傾けるようになった。そして、気持ちいいほどの“勧善懲悪”路線で作品を書き上げている。

まるで重りを取っ払ったかのようで、『マリアビートル』は非常に痛快な作品に仕上がっている。伊坂自身のワクワク感が伝わってくるようである。

 

リアリティの重要性

物語の舞台は東北新幹線。そこに居合わせた殺し屋たち。飛び出てくるのは伏線の数々。そして分かりやすすぎるまでの勧善懲悪。

これが超面白い。

しかし、さきほど書いたようにこの物語にとって抜け落ちているものがある。

それが“リアリティ”である。

 

この“リアリティ不在”の問題というのは、このブログでもたびたび問題として挙げてきた。非常に難しいというか、ナイーブな問題である。私からすればそこまでの問題でもないのだが、一部の読者が妙に気にしてしまう“落とし穴”のような問題である。

リアリティを物語に求める人は多い。よく言われる「人間が描けていない」なんていうのもこのリアリティに通じる部分があるように思われる。

物語にリアリティを求めるということはつまり、「現実世界を写実的に表現して欲しい」ということである。複雑怪奇である私達の暮らすこの世界を、フィクション世界に綺麗にパッケージングして表してみてほしい。そういうことなのだろう。

 

しかし、フィクションにそこまでリアリティは必須な要素だろうか?

リアリティさが無ければ楽しめないのだろうか?

 

それはあまりにも見識が狭すぎるだろう。

 

伊坂幸太郎はこの辺りのことをだいぶ割り切って考えているようである。

「フィクションなんだからこそ、リアリティはいらない。フィクションでしか味わえない世界を表現したい」

 

そう、たしかにリアリティのある物語はそれはそれで面白い。超リアルな絵画を見たときのような感動がある。また、世界を見事に切り取る手腕に酔いしれることもあるだろう。

ただそれはあくまでも物語の、いや、表現方法の楽しみ方のひとつでしかない

表現は無限である。であれば、楽しみ方も無限である。

わざわざ自分でルールを設けて、楽しみを減らす必要なんぞない。アートも小説もそれは一緒だろう。みんなもっと平野啓一郎を見習って欲しい。

 

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フィクションだからこそ見える景色

ということで、『マリアビートル』は非常にフィクション色の強い作品に仕上がっている。それはつまり伊坂幸太郎らしい作品ということと同義である。人を楽しませるための要素がこれでもかと詰め込まれている。

現実感があるとかないとかそんなつまらないことにとらわれず、目の前にある料理をただただ美味しく味わって欲しいと、いち物語好きとして私は思う。フィクションだからこそ見える景色がそこにはあるはずだ。そこに価値を感じて欲しい。

大体にして、現実世界を見たければ、いつだってそれは私達の目の前にあるのだから。そんなの本を読み終わってからいくらでも見ればいいだろう。

 

以上。

 

 

ちなみに『殺し屋シリーズ』の続編はこちら。まだ未読です。

 

 

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