不謹慎な話かも。
講習でびっくりしたこと
どうも、MT車の免許を持っているブロガーのひろたつです。事故を起こしたことはありません。これからも大丈夫だと思ってます。
先日、運転免許の更新に行った。
経験したことがある方はご存知だと思うが、免許の更新に行くと何十分かのクソつまらない講習を受けさせられる。私のように長年ゴールド免許を維持している超優良ドライバーであってもそれは強制である。ちなみに捕まっていないだけで、違反はしょっちゅうしている。ごめんなさい。
さて、その講習の内容で驚くべき、いや逆か。あまりにも思った通りすぎて逆に驚いてしまった事実が紹介されていた。
交通事故の死者の内訳として、「半数以上は老人」であるというのだ。
その理由として挙げられるのが「慢心による飛び出し」。つまり「今までも大丈夫だったから、今回も大丈夫だろう」と考え、横断歩道が無い所を飛び出してしまったのだ。
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あるあるだよね
確かに私も経験がある。
車が渋滞しているときに、突然目の前を老人が道路を横切ったことがある。
横断歩道が赤に変わる間際ぐらいのタイミングで、老人が横断歩道から数メートル離れた位置から飛び出してきたこともある。
中には手を上げてこちらを牽制しながら道路を横断する強者もいた。あんなの海外ドラマの主人公ぐらいしかしねえぞ。ブルース・ウィリスかよ。
そんな老人を見るたびに「よく事故に遭わないな」と思っていたのだが、実はしっかりと事故に遭っていたようである。まあ考えてみれば当たり前の話だ。ハインリッヒの法則を例に出すまでもなく、日常的に飛び出していればそりゃいつかは、事故に遭うだろう。ブルース・ウィリスだってたまにしか飛び出さないから無事なのだ。頭皮は無事じゃなかったみたいだけど。まあ命に比べれば毛根なんぞ大した問題ではない。人によるだろうけど。
でもそれって自然なことかも
さて、老人の飛び出しについてだが、この事実は驚きであると同時に仕方ないとも思える部分がある。
というのも、人は自然と「良いことは続く。悪いことは続かない」と勝手に決めつける節がある。
例えば身近な人は明日もそこにいるものだと思っている人が大半だろう。いきなり自分が不幸になると思っている人も少ないだろう。
また、何か酷い目に遭った人が「これでしばらくは何も起こらないだろう」なんて物言いをするのもよく聞く話である。「落ちる所まで落ちたし、後は上がるだけ」とか。
偉そうに語っている私自身が良い例だ。職場で部下たちに何か問題があったとき「これってどうするんですか?」と聞かれるとよく「まあ何とかなるでしょ。今までも無事だったし」とRPGのモブみたいに繰り返している。
人は希望に飛びつく
この謎の自信はきっと自分自身を「物語の主人公」のように捉えているから生まれる幻想だ。
今はそうでなかったとしても、いつかは幸せになるだろう。成功するだろう。満足するだろう。自分の物語にはハッピーエンドが待っていると思っている。誰しもが自分の中では自分をヒーローに仕立て上げている。別に悪いことじゃない。その方が人生を楽しめると思う。
これは人間に備わった「希望を持つ」という性質がもたらしている現象だろう。
希望があるからこそ人は今を耐えられるし、希望が無かったらさっさと自死するものだ。
これは可能性とも言い換えられるだろう。可能性がないと判断してしまうから、子供や追い詰められて思考が狭まっている人は自殺をしてしまう。
しかし希望は得てして人を愚かにしてしまう作用もある。
上記の飛び出す老人の例に限らず、人は見たいもの見て、見たくないものから目を逸してしまう。希望を奪う要素が非常に苦手だ。
それくらい希望は甘く、輝いている。ついつい見惚れてしまうのだ。足元に穴があっても気付かないぐらいに。いや、穴から目を逸らすために希望を見るのかもしれない。
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殺人鬼現る
どれだけ自分の経験値を信じようがその人の勝手であるが、事故に巻き込まれる側からすれば堪ったものではない。運転者側からすれば、車輪で轢き殺すので正確には“巻き込む”なのだろうが、心情的には巻き込まれている感の方が強い。
運転中にいきなり目の前に老人が飛び出してくると本当にびっくりする。私は能力的にも人格的にも未熟なので、そんなとき一気に怒りに駆られる。「もうちょっとで殺しちまう所だったじゃねえかこの野郎!殺すぞ!」と思ってしまう。こんなの殺人鬼である。
ということで、どうか善良な私を殺人鬼にしないためにも、老人の皆様には交通ルールを守っていただきたいと切実に思う。
そして、自分自身も「なんとかなるでしょ。今までも何とかなったんだから」というアホみたいな考え方をもう少し改めるべきだと反省した次第である。
以上。