私のことである。
仕事でもなんでもそうだが、しょっちゅう「それは分かってるんだけど…認められない」みたいなことを言ってしまう。
本当に分かっているのならば、なぜ認められないのか
それは結局、認められない理由があるにも関わらず、それをはっきりとした言葉にするだけの頭がないからなのだろう。または、言葉にしようとさえもしていないからだろう。
他人事のように書いているが私のことである。繰り返して申し訳ない。分かってはいるのだが、なぜか繰り返してしまうのだ…、といった具合である。確実に頭が悪いだろう。もう死んでしまいたい。「じゃあ死ねよ」と言われたら、またしても「それはそうなんだけど…」と返してしまいそうである。
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努力できない人々
この態度は本当に危険である。人生の質を悪くする一方だ。
例えば、何か努力しようとしていることがあったとしよう。そうだな、ダイエットにしようか。
毎日3キロ歩く、という目標を立ててそれを実行する。
その一方で、目標を達成したご褒美にコンビニでケーキを買って貪ったりしてしまう。本末転倒である。愚かにもほどがある。
他にも、筋トレをするとか言っておいて、そのそばからポテトチップスを食ったり、ラーメンを嗜んだりする。
私もブログでなんとか収益をあげようと決めたはずなのに、気がつけばゴロゴロしながらお菓子を食べてゴロゴロしている。あれだけ「生産することが大事だ」とのたまっていたのに、消費一方の毎日。稼ぐどころか、搾取されている状態である。
そのときに使う言い訳が「努力しないといけないのは分かってるんだけど…」だ。全然分かってない。脳みそツルツルである。
優秀な人たちの共通点
こんな脳みそツルツル野郎だが、いっちょ前に偉い人の本を読んだりする。
すると彼らにはある共通点があることに気が付いた。
理性と感情が直結しているのだ。
私とはまるで逆である。
「これをやらなければならない」という理性に対して、できなければ落ち込んだり苛立ったりする。上手くいけば喜ぶ。すべては「これが正しい」と思うことに対して感情が左右されている。
だからこそ彼らは、一般人では成し遂げられないような偉業を成し遂げる。努力を努力と思わないレベルで継続できる。「分かってはいるけど…」なんていう自己矛盾は発生しない。
私のような自己矛盾の塊からすると、彼らは化物である。どこからそんなエネルギーが出てくるのかと不思議でならない。そして、いつまで経っても自分の中の「正しさ」と「感情」が一致しない自分自身のことも不思議でならない。なぜこんな差が発生してしまうのか。
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言い訳製造工場は今日も元気いっぱい
そんなときに使う言い訳はこうだ。
「才能の差だ」
「元々生まれ持ったエネルギー量が違う」
「体力がある人はいいよなー」
「あの人は意思が強い」
などなど、いくらでも出てくる。
とにかく「自分にはないもの」に目を向けて、己を慰める。別に自慰をするわけじゃない。いや、これは精神的な自慰なのかもしれない。
「持ってないんだから仕方ないよ。自分は自分なりによくやってる」と。全然やってないくせにどの口が言うんだ。
手持ちのカードで勝負するしかない
どれだけ自らに言い訳しようが、自己弁護しようが、悲観しようが、自分は自分である。どれだけのハズレ人生だとしても、全うするしかない。
人はいつだって手持ちのカードで勝負するしかないのだ。
そもそも才能なんてものが本当にあるのかなんて、誰にも分からない。
身長とかそういう目に見えるものであれば確実だが、私がこの記事で書いているような“才能”は本人の努力から生まれたものが多い。果たして、私が偉人たちと同じことをできないと誰が断言できるだろうか。少なくとも私は断言できるが、他人からとやかく言われる筋合いはない。バカにするんじゃねえ。バカだけど。
自分のために何を使うか
頭の悪さを嘆く時間があったら、少しは手を動かせと。
そして手を動かしていない自分を少しは嫌いになれ、と思う。
自己愛が強い人間は、きっと自分を否定できずに「分かってるけど…」なんて言葉を使ってしまうのだろう。だから理性が簡単に感情に流されてしまう。
そして偉業を成し遂げる人たちは、今の自分じゃなくて、未来の“こうなりたい自分”を愛しいるからこそ、エネルギーを未来の糧にできるのだろう。必死に頭を使うからこそ、理性が感情に流されない。
今の自分の快楽ために感情を使うか。
なりたい自分のために頭を使うか。
これは結局のところ、サルでいるか、それとも人間なるか、という話なのかもしれない。
以上。
それにしてもシャバーニのかっこよさよ。