どうも。
羽生善治氏の名著
先日、羽生善治氏の名著『大局観』を読了した。彼の本はどれもこれも質が高くいつも満足させてもらっている。
大局観 自分と闘って負けない心 (角川oneテーマ21) | ||||
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この著書の中でかなり印象的な一文があった。
「ツキには多くの人を魅了し、揺さぶり、惹きつける普遍的な要素がある」
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運の中毒になる人が一番レベルが低い
確かに世の中を見渡してみると、「ツキ」や「運」と呼ばれるものに対する依存の度合いでその人の質に差が出ているように感じる。
以前にも似たような記事を書いたが、基本的にツキや運にすべてを任せたり投げ出したりする人間はバカである。有り体に言えば愚者だ。そんな人間はちょっとしたトラブルであっけなくこの世を退場することになるだろう。現実の重さに一瞬で潰されることになるだろう、グシャッとね。ああくだらない。
あなたの身近にもいないだろうか。ギャンブルなどの賭け事やスマホゲームの結果に一喜一憂したりムダに課金し続けてしまう人が。
彼らはギャンブルやゲームの世界に構築されている「運試し」にしか興奮できない状態になっており、現実世界で努力することや積み上げる快感を失っている人種である。
別に私は他人の趣味を否定できるほど偉くはないが(そもそも偉い人は他人を安易に否定しない)、それでも下品かどうかぐらいは判断できる。
運に身を任せるのはあまりにも動物的だと思うし、何のための脳みそなのか、何のために人間として生を受けたのか疑問を感じぜずにはいられない。
こういう人たちは本当にレベルが低いと思う。一番レベルが低い。
運任せにしてしまう人は次点
それより若干人間よりだけど、やはり愚かなのが「運任せにしてしまう人」だ。
さきほどの「運中毒」よりかは立派だが、それでもまだ動物界の臭いを引きずっている。体毛が抜け落ちていない感じがする。そういう人たちの場合、散髪よりもトリミングと言ってあげた方が自覚するのだろうか。
よく分からない話になってしまった。
こういうトリミング系の人たちというのは、とにかく事前に考えることが苦手である。計画するために頭を使うことが嫌いだし、頭を使うのは「何か問題があってからでいい」というものである。リーン・スタートアップといえば聞こえはいいが、実態はただの「能無し」である。事前に予測するだけの脳みそがないだけのことである。もしかしたらやる気の類かもしれないが。
まあこの記事で好き放題似たようなことを書いているので、興味があったら読んでもらいたい。
※参考記事
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運を理由にして反省しない状態
次はこれである。「運を理由に反省しない人」である。
何かプライドが邪魔をするのか、それとも異常に傷つきやすいから防御線を張っておきたいのか分からないが、悪い結果が出たときに「運が悪かったね」で済ませてしまう人がいる。
これは非常にもったいない。
せっかく頭を使って準備をしたにも関わらず、結果に関してはとやかく言わずにそのまま受け流してしまうのだ。
将棋にはこんな格言がある。
「勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし」
つまり、たまたま上手くいくことはあっても、たまたま悪い結果が出ることはないということだ。悪い結果が出たときは勉強のチャンスである。成長のキッカケである。これを逃す手はないのだ。
だいぶ人間的だとも言えるが、やはり「運」や「ツキ」を理由に人生をコントロールすることから逃げている印象が拭えないと思う。
運を気にしない
最後が「運を気にしない人」である。これが最強であり、理想とする姿だと思っている。
立派な年配の方を思い浮かべて欲しい。彼ら彼女らが、運やツキといったものに一喜一憂するだろうか。揺らぐようなことがあるだろうか。
確かに運やツキで状況が悪くなることも良くなることもあるのは事実だと思う。
だがそれを気にするのではなく、執着するのでもなく、それこそ「天気」ぐらいに受け止めて、左右はされども当たり前に受け流せるような人が最強だと思う。
あとのすべては自分次第であり、自分の心模様が映し出す世界だと悟っている状態である。
しかし諦めているわけではなく、しっかりと自分の人生をコントロールすべく、そしてもちろん楽しむべく、一生懸命に生きる。それが理想であり、人を簡単に狂わせる「運」との付き合い方なんじゃないだろうか?
運やツキは私たちを簡単に堕落させてしまう。脳みそを使うことから離れさせてしまう力がある。それは時に強烈な快感さえも伴う怖さを持っている。
快楽だけに身を任せればそこは動物の世界であり、人間としての尊厳は失われる一方である。
人生を向上させる上で、「運」に対する自分の態度を気にしてみると、意外と見えるものがあるかもしれない。
以上。