どうも。
森博嗣は小説よりもこういった本の方が彼の味がよく出ている。
内容紹介
本文より一部、抜粋させていただく。
抽象的に考えるというのは、簡単にいえばものごとの本質を掴むことで、見かけものに惑わされることなく、大事なことはどこにあるのかを探すような思考になる。この場合
、大事なことというのは、たとえば、ほかの事例にも役立つこと、あるいは、細かい雑事を除いた大雑把な傾向のことだ。
例えば、二つの国が一つの島を自分の領土だと主張して譲らない、というような問題を考えてみよう。世界のどこかに(あるいはどこにでも)、そいう問題は必ずあるはずだ。何十年もそれで争っている。こうして、少し引き気味に書くと、いかにも馬鹿げたことに見えてくるが、近づいてみると、のっぴきならない事態に巻き込まれるだろう。
さて、こういうとき、貴方は、どう考えるか?
「そんなものは理想だ」という人も多いと思う。そのとおり、理想論だ。できるだけ理想を目指す、ということが客観的で抽象的な思考の目的であるし、僕の理想でもある。理想が悪いはずがない。悪ければ、理想ではなくなるのだから。
タイトルからして『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』という大風呂敷を広げに広げたものになっている。私はこのタイトルに完全に釣られてしまったクチで、「え、どんな問題も解決する方法があるの?知りたい知りたい!」と即座に食いついた。
この本のタイトルは正確ではない。森博嗣自身も原稿を書いているときは「抽象思考の庭」という仮タイトルを付けていたぐらいだ。この本の本質は「抽象」にこそある。
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抽象は役に立たない?
なにやら難解なアートを見た時などに、「これは抽象的だな」と思うことがある。
部下のぼんやりとした報告や相談を受けているときに「抽象的だなぁ」と思うことがある。
私の中で「抽象的」という言葉はイコール「よく分からない」というものだった。別にそれが間違っているとも思わないが、抽象的という言葉を悪い意味で使う方に偏っていたと思える。たぶん、世の多くの方も同じ傾向が出ていることだろう。
なんせ仕事の多くは具体的で現実的なものを求められる。抽象的なものを考えたところで、目の前に燃え広がった火を消すことはできない。
では抽象的な思考が役に立たないか?というとそれはまったく違う。
それは「自分はなんのために生きるか?」という問いに意味がない、役に立たない、と論じることと同義である。短絡的な人ほど本質を蔑ろにしがちだ。
客観的になること
抽象が役に立つ例を考えてみた。
この画像を見てもらいたい。
さまざまな図形が書かれているが、この図形たちをできる限り綺麗にひとつの箱の中に収めるとしたら、どういった収め方になるだろうか?
もし真剣に考えてくれた方がいたら申し訳ない。私は特に答えを用意していないので教えることはできない。ここで大事なのは具体的な答えではない。
この問題を抽象的思考で捉えるとするならば
「こういう問題を出題するこいつの意図はなんだろうか?」
「そもそもちゃんとした答えはあるのか?」
「問題を解く必要はあるのか?」
というものになるだろう。どれも私が提示した問題よりも上の次元の思考である。
人は問題が目の前に提示されるとどうしても「答えは何だ?」と具体的なものを見つけようとしてしまう。それはときに私が出したこの問題のように「答えはありません」というものだったりするときに迷宮入りしてしまう見方である。
近づけば近づくほど感情的になる
問題というのは近づけば近づくほど感情的なものが潜んでいる感じがする。この感覚もまた抽象的である。
人は具体的なものに影響されやすい。刃物がこちらに向かっていれば怯えるだろうし、犬のフンが落ちていれば避けたくなるだろう。
しかしその影響がときに問題を解決する妨げになったりする。というか問題を解決するときに感情が役立つことなんてのは見たことがない。使命感なんてのもあるが、これだって邪魔になるときがあるくらいだ。
だからこそ私たちは問題に直面した時に抽象的思考が必要になる。
逆にいえば、抽象的に捉えるクセがついていれば、問題解決の邪魔をしてしまう「感情」に振り回されることもない、ということだ。
目の前で燃え広がる火を見て、「やばいやばい、早く消さなきゃ!どうやって消そう、水は?水はどこ?」というのは近視眼的な発想であり、「建物を破壊して周囲に燃え広がらないようにしてしまおう」というのが抽象的思考から生まれるアイデアであろう。
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原発問題に見る短絡的思考
大事故があったせいで、原発反対の声が大きくなっている。事故があって初めて危険性を知った人が多いわけだが、こういう経験をしたのなら、この経験を抽象化して「事故が起こる以前から、もう少しなにごとも心配した方が良い」という展開をしたいものである。そうでないと、今回の教訓を活かせないことになる。太陽光発電や風力発電や、新しい技術に危険はないのか、とどうして今疑わないのだろうか?
原発問題にしても同じように感情が邪魔をしているように見受けられる。そしてこの感情ってやつは人が行動を起こす上でけっこうなモチベーションになってしまったりするから困る。反対派に血気盛んなイメージがあるのもこういった理由からなのかもしれない。
私は自慢がじゃないが学がない。周囲を見てもアホな部類だと思う。
だからこそこうやって腐るほど本を読んで自分の血肉にしようとしている。いつも自分自身に疑問を投げかけている「お前はそれでいいのか?」と。
だからそうそう簡単にいろいろな問題に対して「こうだ!」と答えを提示することはできないし、それが原発なんていう専門的なものであれば尚更である。集団的自衛権のときもそうだったが、知ったような気になっている大衆よりも、知識を持ったその道の専門家が考えた方がいい問題というものはあると思う。
囚われていませんか?
忙しい現代人はいろいろな問題に対していちいち抽象的に考えている時間はないのかもしれない。あまりにもこなさなくてはならないタスクが多すぎるのだろう。
しかしその考え方自体がそもそも短絡的であり、抽象が足りていない。
エッセンシャル思考 に代表されるように、私たちは常に「何が一番大事か?」という問いかけをすべきである。
いつだって大事なことは本質的であり、本質は抽象的なものなのだ。
囚われない思考を持ちたいものである。
以上。
人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書) | ||||
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