俺だってヒーローになりてえよ

何が足りないかって、あれだよあれ。何が足りないか分かる能力。

変化する勇気がない人が他人の不幸をコンテンツにしてしまう

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どうも。

 

ワイドショーが廃れない

私はワイドショーが嫌いで常々、「なんでこんな不快なコンテンツが人気なのだろう?」と疑問に感じていた。ただ私自身現役バリバリのクソ野郎なので、他人の不幸を楽しんでしまう部分があるのは否定しない。というかそれが私の脳内のほとんどと言っても過言ではない。

自分にもそういう部分があるのも認めつつも疑問を感じているわけだ。「下品な感情を煽るものがこんなにもまかり通るのだろうか?」と。

下品なもの代名詞が性欲だと思う。食欲、睡眠欲と並んで人間に備わった普通の機能であるが、なぜかしら性欲だけは下品とされている。

下品であるという共通の認識があるため、性欲を煽ったり満たしたりするものにはある程度のフィルターや障壁が設けられている。

だが、こと人間の悪感情である「他人の不幸を楽しむ」という分野に関してはいまだに公共の電波に乗ってノリノリでサーフィンをしている。ビッグウェーブを乗りこなしている。そしてそれに応える視聴者。

不思議なものである。

 

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他人の不幸コンテンツは誰のため?

コンテンツというものには「ペルソナ」が必要である。

簡単に言うと「誰に向けてそのコンテンツを作るのか?」ということだ。

つまりワイドショーというのは日本の誰かのためにあるわけで、それを欲しくてたまらない人がいるということだ。

この世にはびこる「他人の不幸コンテンツ」は誰のためにあるのだろうか?

思うに、「自分は変化したくないし、変化する勇気はないけど、だけど日々の生活に刺激は欲しい」というクソみたいな人間が欲しているのだろう。

刺激が欲しいっ

刺激がない生活というのはつまらない。悟りでも開ければそんなことはないのだろうが、この世の多くの人が煩悩を断ちきれずにもがいている。そうなると、必然的にこの世には刺激が必要になる。

だが、刺激にはお金がかかるものと、お金がかからないものがある。

格差社会である日本では、お金がかからない刺激に群がってしまう人達が現れるわけだ。当然といえば当然である。

こういった人たちは意識が常に外に向いている。他人に起こる出来事が生活の中心になるわけだ。あの人はどーだとか、あの人はこーだとか、そんなことばかり考えたり言ったりしている。ワイドショーだけでなく、日常生活でも他人のアラ探しに奔走している。

素敵である。ぜひともそのまま素晴らしい人生を過ごしてもらいたいものだ。そしてあの世でも天使のスキャンダルとかで騒いでもらいたい。いや、鬼か?

変化は刺激になる

受け身の刺激というのは方法が限られてくる。それに「誰かに依存する幸せ」というものは精神的に健康ではない。自立しろと言いたい。

本来であれば自分が何かにチャレンジしたり、新しいことを始めればこの世にはいくらでも刺激はある。刺激がありすぎるくらいだ。

だが、他人の不幸をコンテンツにしてしまうような人たちにそんな勇気はないだろう。新しいことを始める勇気もなければ、失敗する勇気もないのだ。

自分では行動を起こしたくない。またはどうでもいいこだわりや執着があって、「私は動けないんだ」と思い込んでいる。その結果、他人に依存した幸福しか味わえなくなってしまうわけだ。

まさに地獄である。死ぬ前から地獄である。そこから抜け出す術はもうない。

 

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自分の人生を生きたら?

ワイドショーがいつまで経っても廃れないということは、この世にはそんな亡者たちがうようよしているわけだ。非常に恐ろしいことである。そして悲しいとも思う。

亡者たちを治療する術を知らない私は、せめてこんな記事をしたためるぐらいしかできることがない。

まだ亡者になっていない人への牽制になればいいと思う。

他人に依存するということは自分の人生を放棄することと同じだ。人生のコントローラーを渡して、「よろしく!」とお願いしているわけだ。

しかも厄介なのが、これは意識してコントローラーを渡しているわけではなく、いつの間にかコントローラーを落としていて、誰かがそれを使っているだけなのだ。本人にはコントローラーを手放している意識はまったくないのである。

他人の幸不幸を決められるほど私は偉くないが、自分の人生を生きられないのは不幸だと思うし、自分の人生を生きること以外での幸せは有り得ないとさえ思う。

みんなが自分の人生を生きてくれることを願う。

そんなことを思った次第である。

 

以上、健闘を祈る。

 

 


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