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やべっちFCのクラブヒストリーズ『サガン鳥栖』に感動したので文字起こし

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やべっちFC大好評企画の”クラブヒストリーズ”。

「クラブの歴史を知ればもっとサッカーが好きになる」を合言葉に送られるクラブの沿革を紹介する企画です。

前回の広島も良かったのですが、今回のサガン鳥栖はそれを超える内容でした。マジで泣きました…。

素晴らしすぎる内容だったので、みなさんに紹介したいと思います。

 

 

サガン鳥栖誕生秘話 17番の誇りを胸に

 

佐賀県鳥栖市を本拠地にするサガン鳥栖。

街を歩くサポーターのユニフォームには『17』が多く見られます。

しかし、現在サガン鳥栖には『17』の背番号の選手はいません。

それでも愛される『17』にはクラブの歴史が刻まれています。


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1994年PJMフューチャーズが静岡県浜松市から本拠地を移転し、鳥栖フューチャーズを発足したのがクラブの始まりでした。

フューチャーズの誘致を先導したのが、当時佐賀県サッカー協会理事長であった坂田道孝氏

「プロスポーツのない佐賀にサッカー文化を根付かせたい」 

彼のこの言葉に動かされた市民の協力もあり、佐賀県初のプロスポーツクラブが誕生。JFLからスタートし、3年後の1996年には鳥栖市が100億円をかけ2万5000人収容の当時最大規模のサッカー専用スタジアムを完成させました。

 

「私達の応援で昇格させます!」

「来年はJリーグ!」

 

熱烈なサポーター達はJ1昇格を夢見ていました。

しかしシーズンを終えた1996年11月27日、運命が急転

クラブの出資元であるPJMが鳥栖フューチャーズから撤退を表明したのでした。クラブは12億円の負債を抱えることに…。

当時の鳥栖フューチャーズ取締役の高橋寿夫氏は会見で

「現状を冷静に分析いたしまして、今後のチーム継続は困難である」

と語りました。

このままでは1997年1月31日に行なわれる株主総会で、鳥栖フューチャーズの消滅が避けられない状況に。

これを受けた街のサポーター達からは悲痛な声が。

「本当にチームが無くなってほしくないという気持ちが根底にあります」

「球場まで作ってクラブがなくなるのは寂しい」

鳥栖への誘致を先導した坂田道孝氏は責任を感じていました。

「こういう事態になって本当に申し訳ないと思っています。サポーターの皆さんの為にもチームを残して活動していくことが我々の任務だと思っています」

その頃、鳥栖フューチャーズのサポーター達はスタジアムに集まり、クラブ存続を訴える決起集会を行なっていました。

そんな窮地の中、ある日を境に変化が。

鳥栖フューチャーズのスポンサー撤退の表明から約ひと月後の12月23日。天皇杯4回戦のヴェルディ×徳島が行なわれた等々力競技でのこと。

会場に集った鳥栖サポーター達が観客達から署名を集めていたのでした。

もちろん、署名を集めればチームが存続できると決まっているわけではありません。ただただ一縷の望みに掛けての行動でした。

 

その行動はその場にいた他チームのサポーターの心も動かしました。

自分たちの地元でも、署名活動を行なうと申し出てくれたのです。

そしてその動きは様々なクラブのサポーターに波及し、鳥栖への支援は急速に拡大していったのです。

クラブの垣根を越えた協力。

その時の当事者達の声を聞きました。

 

◯横浜F・マリノスサポーターグループ「マリーシア」石井和裕

「1995年頃にJリーグのブームが終わって、もしここで鳥栖が潰れてしまったら僕達が手に入れたこの素晴らしい週末というものがもしかしたら全部なくなってしまうんじゃないかと思った」

◯鹿島アントラーズサポーターグループ「IN FIGHT」河津とおる

「地域で支えてJリーグまで上がってくるチームが今はいくつもあるじゃないですか?鳥栖はその先頭に立ったチーム。鳥栖が成功できれば沢山のJリーグの仲間達が増えていく」

◯浦和レッズサポーター清水博弥

「自分のチームがなくなりそうな時にあそこまで真剣に『今は厳しい状況だけど僕達はこのチームと一緒に歩んでいく』と言っていたのが印象に残っている。その姿勢には胸を打たれた」

そんなサポーター達の署名運動の水面下では、坂田氏を中心に佐賀県サッカー協会がJリーグとの交渉が進められていました。

 

こうした動きの中、鳥栖の処遇は2月1日に迫るJリーグ臨時実行委員会で決まることに。残された時間はあと僅か

それでもサポーター達は存続を信じ、街頭に立って声を上げ昼夜を問わず署名を集め続けました。

1997年1月1日の広島×ヴェルディの天皇杯決勝で鳥栖サポーター達は、両チームの了承を得てハーフタイムにフラッグや幟を掲げて存続を訴える機会を設けさせてもらいました。

※バックに流れるkodaline


その懸命に訴えるサポーターの姿は、会場に足を運んでいた当時Jリーグのチェアマンを務めていた川淵三郎の目にも止まりました。

こうして存続危機から僅か2ヶ月で全国各地から5万5000人の署名を集めることに成功

 

そして迎えた運命の日-。

 

1997年2月1日、Jリーグ臨時実行委員会で鳥栖の行方が決まりました。

「鳥栖フューチャーズは解散とするが、新チームとしてJFL参戦を認め、ナビスコカップへの参加も特例として認める

Jリーグは鳥栖に新チームとして再出発するための超法規的措置を取ってくれたのでした。

この決定を下した川淵チェアマンはその当時を振り返り、こう語った。

 

「5万人以上の署名を集めチーム継続の強い希望があった。あの署名がなければ鳥栖を切っていた」


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まさに鳥栖のサポーター達が人の心を動かしたのでした。

そして発表された新チーム名”サガン鳥栖FC” 。

そのチーム名には佐賀と鳥栖に加え、小さな砂粒が固まって大きくなった”砂岩” という意味が込められました。

ひとつひとつは小さく砂粒ほどの力でもその多くが時間を掛けて固めれば、大きな砂岩となる。

クラブの垣根を越え集まった5万5000人の力によって、新たな市民クラブ『サガン鳥栖』が生まれたのです。 

 

その年の春、サガン鳥栖初の公式戦が行なわれました。ナビスコカップで相手は浦和でした。

 

鳥栖に遠征したレッズサポーター達は鳥栖の助けになればと募金を集めてチケットを大量購入。これを鳥栖市の小中学生に配って招待してくれました。


お礼に駆けつけた鳥栖サポーターに浦和のサポーターはこう言ったそうです。

「でも試合は別だぞ!」

 

 

鳥栖サポーター後藤滋

「サッカーを好きな人が全国に沢山いる。こんな田舎のクラブチームに支援してくれたことは感謝の言葉しかない」

ナビスコカップの試合後には鳥栖のサポーターと浦和のサポーターで記念撮影をしていました。

その後、サガン鳥栖は1999年Jリーグに正式加盟。J2に参戦しました。

 

そして、軌道に乗ったと思われたサガン鳥栖初のJ2シーズン直後のこと…

 

 

2000年1月7日。佐賀県サッカー協会理事長 坂田道孝氏 逝去-。

 

佐賀にサッカー文化を根付かせようとクラブを鳥栖に誘致し、新チーム”サガン鳥栖”の発足に尽力した男は、サガン鳥栖のJリーグ昇格を見届けるように54歳の若さでこの世を去りました。

当時サガン鳥栖の専務取締役を務め、坂田氏と共にサガン鳥栖の発足に尽力した石橋千和氏はこう語った。

「彼の背負っていたものは…涙が出るけど…並大抵ではなかった。この地にプロサッカーを誘致したのになくなってしまって坂田さんに『もう辞めたい、これは大変だよ』と言ったら、『絶対に辞めたらいかんよ。絶対に続けなければ頑張らなければあかんよ』と言われた」

 

坂田氏は生前、常々口にしていた言葉があった。

 

「サガン鳥栖はいつか佐賀になければならない宝になる」

 

 


現在の鳥栖サポーターの声

 

「地元にこんなに密着しいるクラブがあっていいなと思います」

「サガン鳥栖が生活の一部になっているし、家族の共通の話題になっています」

「勝ったら次の週、仕事を頑張れる」

「一丸となっている姿を見るとこっちも楽しくなるし、大切にしたいですね。サガン鳥栖を」

そしてサガン鳥栖では、坂田氏の命日1月7日にちなんで17番がサポーターナンバーに定着。Jリーグ初の永久欠番となりました。

 


サガン鳥栖 在る限り 17の誇りを胸に

※サガン鳥栖の応援歌の歌詞より 
 

 

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物語があると強い

 

クラブの歴史を知ればサッカーがより楽しくなる、というのはまさにですね。

これを観て一気に私はサガン鳥栖が好きになりました。それにしてもやべっちFCはいい企画が多いですね~。今まで観ていなかったことを後悔しています。

こうやって物語にパッケージすると細部でちょっと違うところあって指摘されたり、実際はもっとドロドロしたものがあったんだよとか言われがちですけど、私みたいなニワカを引っ張る方法としては最強だと思います。

だって人に喋れますからね。いいコンテンツってのは人を感染させるんですよ。だからこそ物語は強い武器になります。

今までなんであんなにも鳥栖が愛されているのか不思議に思っていたのですが、これで謎が解けました。

 

 

実際に行動を起こしたのがすごい

 

困ったときはお互い様なんて簡単に言いますけど、実際に行動を起こすには時間もお金も勇気も必要です。どれか一つでも欠けると出来ませんから。

それだけ熱い想いを持てるものがあることがまず素晴らしいですし、そんな純粋な情熱は人の心を動かしますからね。

反発する人も当然いるでしょうが、反発=人に関心を持たれているということですから、めげなければ絶対に誰かしらの心に響きます。いい人はいっぱいいますから世の中ってのは。

悪い言葉の方が大きく聞こえがちなせいで悪いやつばっかりに思いがちですけどね。

 

 

さて、今は…?

 

サポーター同士の絆は今でも健在でしょうか?

相手があってこその自チームだと認識できているでしょうか?

そして相手チームのサポーターがあってこそのJリーグだと分かっているでしょうか?

私の子供達も直にスタジアムに連れて行けるぐらいの年頃になります。

ですが今の所、私の足はスタジアムに向かおうとしていません。恐い人がいっぱいだと知っているからです。サッカーを嫌いになってほしくないですしね。

実際にスタジアムでサッカーを観たことがないサッカーファンは、いっぱいいるでしょう。

これからのサッカー界が盛り上がることは私が大好きな代表が強くなるためにも必要なことでしょう。

新しい観客を呼びこむためにも、いらぬ障害は取り除けるといいですよね。

では。