マニアは閉鎖的になります
年がら年中、時間の許す限り本を読んでいる私は本のマニアだと思っている。
若い頃なんかはやたらと尖りたくなるもので、それは読書マニアでも同じで、自分の身の丈に合っていないような作品ばかりを手に取ったり、「奇書」と呼ばれる変態作品たちを読み漁ったりして、「高みにいる俺スゲー」的な自己満足に浸っていたもんだ。今考えるととても幸せなやつだったと思う。
で、そんなマニアになってしまうと色々と排他的になってくるのはどんなジャンルでも同じで、私は「本は作家が書くもの。芸能人なんか入ってくるんじゃねえ」と強く強く思っていた。それは憎しみと呼んでもいいぐらい激しい感情だった。勝手なものである。
※参考記事
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今は単純
今はだいぶおっさんになってまろやかになったので、本を評価する基準はただひとつ。
心を動かすもの。
それだけで十分なのだ。
ただ今でも、芸能人が小説を書いて文学賞に入賞とかすると若干アレルギー反応は示してしまう。これはもう仕方ない。自分の特性だと受け入れるしかない。愚かな私だが、少なくとも自分が愚かなことぐらいは理解して生きていたい。
だがエッセイに関しては別である。芸能人が書いたエッセイには、驚くほどオモシロ方り心揺さぶられる作品がある。とんでもなく素晴らしい文章に出会えるときがある。この驚きは大好物なので大歓迎である。(たぶんこれもどこかで侮っている気持ちがあるからだと思われる…)
意外な発見
ということで、今回紹介する本である。著者はオードリーの若林正恭。
どうでもいいが、芸能人の名前を文章で出すときに、呼び捨てにするのがしっくり来るのは一体何故なのだろうか。普段の会話がそうだからか。
まあそれはいいとして、若林のエッセイである。
完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込 (角川文庫) | ||||
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若手芸人の下積み期間と呼ばれる長い長いモラトリアムを過ごしたぼくは、随分世間離れした人間になっていた―。スタバで「グランデ」と頼めない自意識、飲み屋で先輩に「さっきから手酌なんだけど!!」と怒られても納得できない社会との違和。遠回りをしながらも内面を見つめ変化に向き合い自分らしい道を模索する。芸人・オードリー若林の大人気エッセイ、単行本未収録100ページ以上を追加した完全版、ついに刊行!
タイトルからして彼らしくクセが強く、初見時の私の感想は「めんどくさそう…」だったのだが、実際に中を読んでみたら「お前、めんどくせえよ」というような話ばかりだったので、ある意味ぴったりなタイトルである。
そんな「めんどくせえよ」に溢れたエッセイなのだが、これがまた素晴らしい。随所にキラキラした文章が散りばめられていて、まさに私が求めている「心動かされる」作品だった。
私は特別に若林のファンではない。アメトーークで観る彼のことはもちろん好きだし、面白さは当然知っていた。本好きであることも。
なので、ほんの何気ない気持ちで手に取っただけである。
そんなちょっとした興味で手に取った本が、とても素敵な作品だったときの喜びは、気の合う友達を知らない土地で見つけたような高揚感がある。
他人の苦しみはやっぱり面白い
このエッセイはほとんど若林の苦しみや葛藤で埋め尽くされている。モラトリアムをそのまま文章化したような作品である。
だがなぜだかそれが面白い。そしてなぜだか胸がスッキリする。爽やかな気持ちになる。
自分の苦しみは大嫌いでも他人の苦しみは、かくもこんな簡単にエンタメになってしまうのだから、人間というのは醜いものである。
ただ、それでも面白いもんは面白い。自分の感性に素直に従うべきである。
どれだけ本書の内容が著者の苦しみに溢れていたとしても、そもそも読んでほしくて発表されている作品である。むしろ、存分にその苦しみを楽しみ、エンタメとして昇華させてあげることが弔いになるだろう。
文章にもやられる
大体にして文章が美しい。
このエッセイは雑誌『ダ・ヴィンチ』での連載をまとめたものらしいのだが、連載の最初のころの文章はぎこちなくて、どうにも堅苦しさが抜けていなかった。
しかし連載を重ねる内にコツを掴んだのか、次第に文章は洗練されていき、読みながら気になるようなことはなくなっていった。
それどころか、頻繁にハッとするような濃い文章が続々と現れるので、軽い気持ちで読めなくなってくるぐらいだった。
純文学を愛しているだけあって、表現は多彩だし、非常に上品だ。そして意味の詰まった文章を並べてくれる。
読みながら私は思った。
…いい。
これはいいぞ。
なんだかよく分からないけど、ニヤニヤが押さえきれなくなってくる。自分の中の何かが共鳴している。
次々と襲いかかる若林のクソみたいな価値観と人間性。冷静な自分は「バカじゃないの?」と言っている。だけど、それとはまた違う自分が「なんか分かる…」なんて説得されてしまっている。
そしてやたらと感動してしまった。
自分の中の若林
読後しばらく考えていた。この感動は何なのだろうか、と。
若林の独白は非常に極端で、「これだけイカれてたら、そりゃあ生きていくのは難しかっただろうなぁ」と思わずにはいられない。なにせ、若林の二十代は「ただただ愚痴って、牛丼屋に通うだけの毎日だった」と語っているぐらいだ。どれだけこじらせていたかお分かりいただけるだろう。
そんなこじらせ野郎なのに、いや、だからこそと言うべきか。彼の生き様は刺さるものがある。生きている姿が私に力をくれる。
若林ほどではないにしても、誰しも自分の中に「どうしようもない自分」を抱えている。
普段、その「どうしようもない自分」を理性や社会性という力で押さえつけてはいるが、ふとした拍子に顔を覗かせることがある。そして致命的な失敗をする。
だけどそれでも毎日は続いていくし、どれだけどうしようもない自分だとしても、お別れすることはできない。だからダメな自分と社会の折り合いをそれなりにつけながら、いや、つけられないまま生きていく。みんな同じだと思う。
彼のエッセイはそんな私たちの「どうしようもない自分」は真正面から肯定してくれる。
「こんな自分でやっていけているから大丈夫だよ」と。
こんなことを書くと本人に怒られてしまいそうな気がするが、本当にそう思う。私たちは弱い生き物なので、仲間がいるだけでちょっと強くなれるし、同じ苦しみを抱えている人がいるだけで気持ちが軽くなる。
大事なものは何か?
『社会人大学人見知り学部卒業見込』 の中でたびたび出てくる若林の中にある「大事なもの」は私たちからすれば本当にくだらないものだったりする。本人もしばらく経ってから「あの頃の自分はバカだった」と言ったりしている。
きっとこれもみんな同じで、どれだけ本人にとって大事なものでも、他人からすればクソにしか見えないときもあれば、そもそも本人にしたって、それがいつまでも大事なものだとは限らない。
すると、自分の中にある「これだけは大事にしよう」「これだけは譲らない」なんていうこだわりが揺らいでくる。一体何が正解なのか?と問いたくなる。そして当然誰もそんなことは教えてくれないし、もし教えてくれる人がいたとしても、それもまたその人の中の勝手な言い分だったり、人の弱みに付け込もうとする情報商材の人ぐらいだろう。
しかし、そんな泣き言みたいなことを言ってもやはり仕方なく、私たちはいつまでも「どうしようもない自分」が見つけた「どうしようもない答え」を引っさげて、無様に生きていくしかないようである。
『社会人大学人見知り学部卒業見込』の中に答えは何もない。愚かな男の無様な生き様が記されているだけである。
だがそれでもあなたの力になってくれることは間違いないだろう。
以上。
完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込 (角川文庫) | ||||
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