どうも。どうやら私がオススメしていた漫画、『賭ケグルイ』がバカ売れのようだ。
この記事を書いている2017年3月末の時点でトータル200万部である。まだ6巻までしか出ていないのにこの売れ行きは、半端ではないだろう。
※この記事で紹介
いい漫画だとは思っていたが、まさかここまで売れるようになるとは意外である。
でも考えてみれば、これだけ内容が濃くて、スピード感があって、しかも絵も美麗とあれば、売れないはずがないだろう。まるでジャニーズだ。
それは全然構わないのだが、この『賭ケグルイ』に関してひとつ私の中で腑に落ちないというか、気持ち悪くて仕方ないことがある。
それがこれである。
パンツである。
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パンツいらなくね?
私は『賭ケグルイ』 の作品内で執拗に繰り返されるパンツ描写が気持ち悪くて仕方ないのだ。
別にパンツが嫌いなわけではない。むしろ好物である。いやそんなことはどうでもよろしい。私が言いたいのは、『賭ケグルイ』のようなギャンブル、頭脳戦をメインとした作品において、いちいちパンツを見せる必要があるのかどうか、ということだ。
『賭ケグルイ』では大金を賭けている。ときには生爪を賭けることもあり、登場人物たちは真剣そのものである。だからこそ、必死で頭脳を働かせ、知力の限りを尽くす。暴力こそないが、これは殺し合いである。
なのにパンツ?
それってどうなの?エロさを入れないとダメなのか?
この気持ち悪さは、高級寿司の上にハーゲンダッツのバニラを載せてしまうような感じである。
「どう?美味しいものの上に美味しいものを乗っけちゃったよ?これで寿司好きもアイス好きも虜!」
そんなわけあるか。
どちらも美味しいものだが、合わさる必要はない。不味くなるだけだ。
読者受けする要素だったら何でも入れればいいってもんじゃないだろう。適材適所ってものがあると思うのだ。
徹底的に差し込まれる性的描写
パンツに限らず『賭ケグルイ』は性的な描写が散見される。それが主役の蛇喰夢子のイカレ具合を表現する分にはいいは思うのだが、全然効果的じゃない方が目立ってしまっている。
これは良い例。明らかに賭けで不利な状況なのに、悶えまくっている。
ちなみにこれが「負けたら手足の生爪を全部剥ぐ」というシーン。夢子のクレイジーさが良く伝わってくる。
これはダメな例。蛇喰夢子の登場シーン。
胸の形が見えすぎだろ。
まるで袋でもぶら下げているかのような違和感がある。大体にして、こんなに胸の形が出るってどんな制服だよ。素材ペラペラなんか。
一部的にこういった描写がされているわけではなく、作品全体を通してこんな感じなのだ。過剰な「エロ描写」が作品の「賭け事」という真剣勝負にいちいち水を差してくる。
これが残念でならないのだ。分かってもらえるだろうか。白けてしまうのだ。
例えるなら、葬式のときにお経を唱えにきた坊さんが網タイツを履いているようなもんである。
別に本人の趣味なんだから放っておけという話なのだろうが、でもなんとも釈然としない。網タイツが必要ないと思ってしまう私が野暮なのか、それとも網タイツを履かずにはいられない坊さんが常識知らずなのか。
読者はエロが大好き
エロが読者を惹きつける大きな要素であることはよく分かっているつもりだ。
以前読んだ『漫画編集者』という本で、興味深い話があった。
これから少年誌で連載する漫画を考えるにあたって、複数の魅力的な女性キャラクターを作り出さなければいけないという状況で、作者だけだとどうしてもキャラのパターンが画一的になってしまうのらしい。つまり自分の好みのタイプから外れられないのだ。
そんなときどうするかというと、編集部内の男どもが集まって、それぞれが思い描く理想の女性キャラを考えるのだ。そうすると、自然と大体のタイプは網羅できるようになる。
だが、そこで問題になるのがエロ要素。少年誌だと「パンツ」である。
魅力的な女性キャラを生み出したあとに決めること、それは「誰のパンツを見せるか?」なのだそうだ。
全員を出すと下品になりすぎるし、誰も出さないと魅力が減ってしまう。その塩梅を探るために男どもが雁首揃えて真剣に悩むらしい。
ちなみにこの話にはオチがあって、この会議では誰もが「自分の考えた女性キャラのパンツだけは見せたくない」と言うらしい。
それにしても、ネットでこれだけエロが無料で楽しめる時代になったにも関わらず、作品内の「エロ」が特別視されるのは、やはり独特の魅力が存在するからなのだろう。
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エロは万能調味料か?
私は漫画に限らず、小説、映画、と物語は全般的に大好きで中毒と呼んでいいほどである。
で、そんな私が思うに物語には、さきほどの寿司とアイスの例えのように“食い合せ”みたいなものがある。具体的に分類するのは難しいのだが、作品内のテンションにあったイベント、属性みたいなものが確実に存在するのだ。
でもこれは難しい。マッチしたものだけを用意してしまうと、凡庸な作品に成り下がってしまう。かといって奇を衒いすぎてもいけない。誰も付いてこれなくなってしまう。
読者に理解させつつも、作者は読者の感性を若干追い越して、作品内に“異物”を入れて新たな何かに仕立て上げる。それが良い作品だと思う。
でもその一方で、これさえ入れておけばいいでしょ。という要素もある。いわば物語の万能調味料である。
代表的なものを挙げるならば、「恋愛」「生死」「家族」だろう。
この3つは人間であれば誰でも理解できるし、悩みのタネに成り得る。物語の中に配置すると読者に共感を持たせることができるのだ。地に足を付けた作品になる。
そして「エロ」である。
エロも人間であれば誰もが理解し、悩みのタネに成り得る。社会的には禁忌とされていることで余計に人を惹きつけて止まない。だからこそ物語という虚構の世界では存分にエロの大盤振る舞いがされるのかもしれない。
エロには色んな形があり、どんな物語のシーンにも溶け込ませることができる。無くても大丈夫だし、あっても全然構わない。
だからやたらと作者はこれら、「恋愛」「生死」「家族」、そして「エロ」というアイテム作中に詰め込みたがる。読者が食いつくからだ。どちらが悪いという話ではない。そういう流れになってしまっているという事実の話である。
その辺りを考えれば『賭ケグルイ』に作者がエロ要素を盛り込みたくなるのも分からなくはないのだ。
実際クソほど売れているみたいだし、エロ要素バンザイというところだろう。
結論
でもだ。
パンツは違うだろ。全然万能じゃないだろ。
なんだか記事を書いている内に話がパンツからエロに移行してきてしまったが、そもそもの問題はパンツである。っていうかこの記事、何回パンツって書いてるんだよ。もう30過ぎのおっさんが書く文章じゃないだろ。
漫画である以上、作者は原稿の全てに意思を働かせているはずだ。少なくとも私はそう思いながら作品を読んでいる。
それくらい本気で読んでいると、「なんでこのタイミングでパンツ…?」と思ってしまうのだ。そのパンツに作者がどんな想いを託しているのか訝ってしまうのだ。
そもそも作者自身は何も思わないのだろうか。自分の愛する作品内で真剣勝負を繰り広げるヒロインが、その真剣勝負の最中、パンツが丸見えになっていても。ワカメちゃんとは訳が違う。
それともあれか、むしろ見てもらいたいタイプの人なのか?
もしそうだったとしたら、悲しい癖である。どんなにシリアスなシーンだとしても、いやそんなシーンだからこそパンツを見せたくなってしまうなんて。
それって例えるならこういうことだろ。
生爪を剥がされるかどうかの真剣勝負の最中、丸見えになっているパンツ。
不治の病に侵された美少女が病室のベッドで、永遠の愛を誓いあった幼馴染に今生の別れを告げているその最中、丸見えのパンツ。
生き別れた両親と20年ぶりに再開した少女が、両親の胸の中で泣きじゃくっている最中、丸見えになっているパンツ。ついでに両親も。
分かってもらえただろう。パンツは万能調味料ではないのだ。
エロは万能かも知れないが、パンツは使いどころを選ぶのだ。
パンツはエロかもしれないが、エロはパンツではないのだ。パンツはエロにとっての十分条件であって、必要条件ではないのだ。
たぶん、作者はここを勘違いしてしまったのではないだろうか。
エロを多用するがあまり、パンツまでもが我が物顔で作品内を蹂躙してしまったのだ。
一体誰が得するのかまったく分からない記事になってしまったが、まあいいだろう。私の中でずっとモヤモヤしていた「パンツ見せるか問題」が解決(?)したのだから。
以上。『賭ケグルイ』のアニメ化を記念して。
賭ケグルイ(1) (ガンガンコミックスJOKER) | ||||
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ちなみにこの記事に出てくる「パンツ」の数は29回である。本当にありがとうございました。